「迷い」を戒める易経の卦(Hexagram)である「蒙(もう="Enveloping")」を取り上げる。
易経占いで同じことは占えぬ理由や、人生の意義や神聖性を考える。
占いの神聖性と「迷い」を考える表象「蒙(もう="Enveloping")」は、易経の本質を伝える!
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「蒙(もう="Enveloping")」は易経の64卦(64Hexagrams)の中でも特にユニークな卦(Hexagram)である。 |
易経の象徴である64卦(64Hexagrams)には、様々な表象が含まれている。
これらの表象は、「前進」「停止」「待機」「忍耐」など、様々な意味を示す。
中には、占う人の態度そのものに警鐘を鳴らすものもあるのが非常に面白い。
今回は、64卦(64Hexagrams)の中でも特にユニークな卦(Hexagram)である「蒙(もう="Enveloping")」について取り上げてみたいと思う。
占いと迷い
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私たちが占いを行うのは、「迷い」があるからだ。 |
私たちが占いを行おうとするとき、一般的に私たちは「迷い」を感じている。
私たちは、自分の行動に確信を持っているときには「迷い」は感じない。
私たちが迷うのは、自分の行動に自信が持てないからである。
行動に自信が持てなくなると、私たちは立ち止まる。
進んでいいのか?
停止したほうがいいのか?
別の道を行くほうがいいのか?
こういう状況下では、私たちの前には、複数の選択肢がある。
選択肢が複数あっても、私たちの人生は一つしか選択することはできない。
どの選択肢がベストであるのかは、どれも保証はない。
しかし、私たちは時間の流れの中で、どう生きるかを選択せねばならない。
私たちが選択肢に迷うとき、「占い」という手段を用いることがある。
逆に言えば、「占い」は「迷い」がなければする必要がないのだ。
未来には保証はない!
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未来がどうなるかは、保証がない。にもかかわらず、私たちは未来への保証を求めがちである。 |
だが、占いとは予知ではない。
占いの結果は、必ずしも当たるものでもない。
占いには保証はないのである。
みなさんには、よくよく考えてみてもらいたい。
もともと未来というものは、保証などない。
これが事実である。
しかし、「迷える者」は、未来に対する不安の極致にいる。
ひどく迷っている人は、占いをしても、あまり意味はない。
例えば、あなたが迷いの極致におり、易経占いをしたとする。
結果で、いい見通しが出たとしても、あなたは不安だ。
本当に、いい状況になるのだろうか?とあなたは自問自答する。
不安で迷えるあなたは、もう一度、易経占いをしなければ気が済まない。
あるいは、易経占いの結果が芳しいものではなかったとする。
するとあなたはさらに不安になる。
あるいはあなたは絶望して、叫ぶ。
「こんなはずではない!」
そして、よりよい見通しがほしいあなたは、もう一度易経占いをしなければ気が済まない。
こうした人間心理は、どこにでもある現象である。
たとえば、日本の神社で「おみくじ」を引くと、吉凶、いろいろな結果が出る。
神社で「おみくじ」を引く場合、「大吉」が出るまで「おみくじ」を引き続ける人も実際にいるのである。
易経占いも、不安に駆り立てられた人は、こうした心理に陥りやすい。
こうした場合、もはや易経占いも何の意味もなさない。
こうした場合のあなたは、「いい占いの結果」を求めているのであり、結果として卦(Hexagram)がなにを告げているのかを判断する心を見失ってしまっている。
ところで易経には不思議な機能が備わっている。
こうした場合に、驚くほどの確率で出る卦(Hexagram)がある。
それが「蒙(もう="Enveloping")」である。
愚か者!
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NO.4 蒙(もう="Enveloping"):愚か者、啓蒙、導く |
この卦(Hexagram)の卦辞(Explanation of the Hexagram)は、次のようなものである。
「あなたの願いは実現する。
私が愚かな幼児を必要とするのではなく、愚かな幼児が私を必要として道を尋ねにくる。
最初にあなたが尋ねることには答えよう。
あなたが同じことを何度も尋ねても答えない。
同じことを何度も占おうとするのは、占いの神聖さを汚す行為だから、答えを与えない。
正しい態度で道を求めるならば、運は開ける」
易経が非常に不思議なのは、未来に対する不安から、同じことを繰り返し易経で占おうとすると、必ずと言っていいほど、この卦(Hexagram)が出るのである。
この卦(Hexagram)の基本的な意味は、「愚か者」である。
自分を見失ってしまっている。
客観的に自分を捉えることができず、努力を放棄し、周囲の状況が見えなくなっている人のことを「愚か者」という。
この卦(Hexagram)は、あなたに対して「この愚か者!」と戒める。
そして、この卦(Hexagram)は占いの本来の意味を説明する。
占いとは、道を見失っている人が、行動への指針を得るために行うものである。
易経は本来、道に迷う人に現状を認識させて指針を与えるためのものである。
現状を認識し、自分の方針を考える時、あなたはすでに「迷い」の状況から動き出している。
易経はそのためにあなたに指針を与える。
したがって、あなたに現在「迷い」があることを易経は咎めない。
迷えるあなたが易経に問うならば、易経は真摯に答える。
しかし、易経が判断を出しても、もしあなたがその判断を真剣に受け止めることができなければ、あなたは何度も同じことを易経に尋ねることになる。
この態度を「蒙(もう="Enveloping")」という卦(Hexagram)は戒める。
あなたが同じことを何度も尋ねても、答えない、と易経は言う。
なぜならば、あなたが同じことを何度も尋ねるとしたら、それは易経を信用していないからだ。
易経占いは、「宇宙的な全体性」へのアクセス手段である。
科学的な根拠はないかもしれないが、易経の性質は非常に神聖なものである。
この易経の神聖性は、あなたの主観が、易経を信用するから成立するのであり、もしあなたが同じことを繰り返し何度も易経に尋ねようとするのであれば、それはあなたは易経占いを信用していないことになる。
易経はあなたに対して問い返す。
「そもそも占いの神聖さを信用していないあなたが、占いという行為をする意味があるのであろうか?」
それがこの卦(Hexagram)の真意なのだと私は思う。
愚かさと無知
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愚かさにも、いろいろある。たとえば、幼児は愚かであるが、それはまだ無知であるからだ。純粋な無知から来る愚かさと、自己愛から来る愚かさとは、愚かさの意味合いが異なっている。 |
「蒙(もう="Enveloping")」という卦(Hexagram)が非常に面白い点は、こうした戒めだけを扱っているわけではない点にある。
「蒙(もう="Enveloping")」のページを開いたついでに、六つの爻辞(Explanation of the Lines)も読んでみてほしい。
「蒙(もう="Enveloping")」の「爻辞(こうじ=Explanation of the Lines)」
◇1st 陰 初6(First6)
「彼は最も蒙昧である。あなたは彼の愚かさを開いてやる必要がある。刑罰を使ってまずは間違ったことをした彼に罰を与えるのがよろしい。彼には罰として足枷をはめなさい。その上で彼が改心したら、彼の足にはめた足枷をといてやりなさい。だが、このやり方はずっと続ければやがては彼は反抗する。やり続けるわけにはいかない。」
◇2nd 陽 92
「彼は蒙昧な人間を抱擁し受け入れる。状況は吉となる。妻を受け入れるにも吉である。家庭においては子が弱き父に代わり家を盛り立てる。」
◇3rd 陰 63
「あなたは妻を迎えてはならない。その女は贈り物をくれる男についていくような女で、いいことはなにもないであろう。慎みがない女である。」
◇4th 陰 64
「彼は愚かさに苦しむ。恥ずべきことである。」
◇5th 陰 65
「彼は愚か者ではあるが、純粋であり、謙虚に人に道を訊ね助言を聞き入れる。吉である。」
◇6th 陽 上9(Upper9)
「彼は愚かものを討伐する。しかし彼が越境して相手に攻撃をかけるのはよくない。愚か者に攻撃させて、彼が防衛するならば恩恵を受ける。」
「迷い」とは、いろいろなケースがある。
「愚かさ」にもいろいろなケースがある。
「迷い」の多くはあなた自身が愚かであるために生じるのだけれども、「愚かな人」を相手にしなければならず、あなたが苦しむ場合もよくあることだ。
また、無知ゆえの純粋な愚かさという場合もある。
そうした場合、たとえあなたが愚かであっても、自分の無知を自覚しているならば、不思議と周囲の人があなたを助けてくれる場合も多い。
また、無知な愚か者があなたに害をなそうとする場合は、これを討伐せねばならぬことだってあり得る。
「蒙(もう="Enveloping")」という卦(Hexagram)は、基本的には「迷い」に振り回されて自分自身を見失っている状態を戒める表象であるが、「迷い」や「愚か者」とどう付き合っていくかを様々な角度から考える卦(Hexagram)でもある。
易経にこうした内容の卦(Hexagram)が埋め込まれているということには、驚愕する。
そして不思議なことに、私の経験では、未来や自分を信じることができずに、何度も同じことを易経に尋ねようとすると、まるでアルゴリズムに反応するかのようにこの卦(Hexagram)が出るのである。
そして、この卦(Hexagram)を通じて見えてくるのは、易経の本質である。
易経は未来予知は行わない。
しかし、あなたの現状や、いまのままの生き方で行った場合の未来を暗示する。
重要なのは、あなた自身が易経を手段として自分自身の覚悟を決めることなのだ。
易経占いにおける「迷い」を指摘する「蒙(もう="Enveloping")」!人生は一回だけだから神聖なのだ!恐れず行動せよ!
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生きることは、常に複数の選択肢があり、一つの決断がある。決断したら、一気に駆け抜けていくだけだ! |
易経のみならず、伝統的な占いは基本的にはあなた自身が覚悟を決めるための手段に過ぎない。
どういう道を歩もうとも、私たちは人生の岐路においては常に一つの選択肢しか選ぶことはできない。
たとえ、予想通りには行かなかったとしても、私たちは自分の人生を受け入れていくしかない。
「蒙(もう="Enveloping")」という卦(Hexagram)は、私たちにそうした人生観を促すために易経の中に埋め込まれているのかもしれない。
私たちの人生は、一回限りである。
だから、私たちは毎日、神聖な決断を繰り返しながら生きているともいえる。
このことをもう少し掘り下げて考えてみたい。
いい未来とはなにか?
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「いい未来」?そんなものがあるのだろうか?なにを基準にするかによって未来の意味は変わってくるというのに、私たちは「いい未来」という幻想からなかなか逃れられない。 |
現代は、日本に限らず、誰もが「いい未来」しか信じない。
テレビでもインターネットでも、「いい未来が得られます」という宣伝文句ばかりが氾濫している。
「この健康器具を使えば、長生きができます」
「この調理器具を使えば、楽ができます」
こうした宣伝文句だけでなく、「保険」に類するものも多い。
「この保険に入れば、将来、病気になっても安心です」
「この保険に入れば、将来、高齢になった時になにもしなくてもお金がもらえます」
でも、商品に限ったことではなく、私たちの住む世界は、人生に対しても「いい未来」という極めて観念的な想像をすることで安心を得ようとする。
日本では、「いい大学に入れば、大企業に就職できるから将来、楽ができる」というような考え方は現代においても根強い。
「大企業に入れば、給与も高くていい人生が送れる」
「公務員になれば、適当に働いても給与が保証される」
「セレブと結婚すれば、お金に不自由せずにいい未来が待っている」
だが、本当にそうだろうか?
世界は、刻々と変化していく。
産業の構造も、社会の構造も、刻々と変化していく。
大企業と呼ばれている会社が、経営不振に陥り、買収され、大量のリストラを行なうのは、もはや珍しくはない。
公務員のように給与が安定していたとしても、幸福がそこにあるかは別問題だ。
セレブの結婚など、芸能番組でよく報じられるが、離婚して最悪の訴訟にもつれ込む話もいくらでもある。
仮に、生命保険に加入していたとしても、交通事故や病気であっけなく亡くなる人は多い。
そもそも私たちは将来になにが発生するかなどなにもわからない。
未来を見通せるわけではないのに、「いい未来」をあなたが勝手に想像しているだけなのだ。
私たちの人生には、予測できないことがあまりにも多い。
にもかかわらず、「いい未来」を選ぶなどと私たちは口にする。
それは実は私たちの傲慢にすぎないのではないのだろうか?
自由意志と責任
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人生は、スポーツと似ている。スポーツと同様に、どう行動するかは、私たちには自由意志が与えられている。 |
人間には、厳密にいうと「現在」しか存在しない。
私たちは、今、ここで、生きている。
生きることは、常に多くの選択肢があり、常にその中から一つを選択することだ。
選択するにあたっては、基準が必要だ。
自分にとって利益がある道を選択するのも一つの基準だ。
家族や、友人や、社会そのもののバランスを考えて、道を選択するのも一つの基準である。
私たちには、自由意志がある。
どのような選択をすることも、私たちには許されている。
しかし、本来的に選択の結果は、いいこともあれば、よくないこともある。
結果はどうなるかはわからないけれども、私たち自身が受け止めねばならない。
それが、私たちが自由意志を与えられている最大の理由なのかもしれない。
占いを行う意義
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占いは、「いい未来」への保証ではなく、「いい人生」への指針である。 |
このように考えた場合、占いの意義とは何か?
占いの意義とは、あなたの人生の選択に対する助言を与え、現状を奇妙な方法で認識させることなのだ。
占いとは、本来、未来予知ではない。
世の中には不思議な能力を持つ人がいて、未来を予見できると思われる人が存在することを私は否定しない。
だが占いの意義は、実は選択の結果にはないのである。
むしろ占いとは、占いを行う人に、「覚悟」を決めさせるためのものである。
未来の世界を、私たちは決定することはできない。
だが私たちは未来への道を選択することができる。
つまり、私たちは常に、自分の選択への「覚悟」を求められている。
それは、どのような結果が待っていようとも、あなたが自分の選択に納得できるということである。
こうした覚悟を持った時、私たちは神聖な決断を下しながら毎日を生きていることになる。
逆に、こうした「覚悟」がない人には、占いなど不要である。
「いい未来」はあるいは存在しないかもしれない。
しかし、「いい人生」は存在する。
「いい人生」とは、基準があるわけではなく、あなた自身の主観の納得が決めることなのだ。
「迷い」を捨てて戦おう!
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私たちは、未来に生きているわけではない。現在を生きている。今、この瞬間をどう生きるか?行動だけが軌跡となって未来へと続く。 |
「蒙(もう="Enveloping")」という卦(Hexagram)が指摘するのは、未来に保証が欲しいだけで、行動しようとせずにうろたえるだけの人間の愚かさである。
私自身が、何度もこの卦(Hexagram)を出したことがある。
私たちは、「自分が望む未来」しか観たくないものだから、未来への保障ばかり追い求めがちだ。
しかし、「いい未来」などというものは、相対的なものに過ぎない。
なにを基準に良し悪しを判断するかで、人生の意味は決まってくる。
私はまだ学生時代だった時、就職活動をして、銀行の内定をもらった。
しかし、私はそれを断って、世間一般的に言うならば奇妙な生き方を選択した。
私が選択した世界は、銀行のような給与が安定した環境とは程遠い世界だった。
そうした道を選択したことで、当時、交際していた女性は私のもとを去った。
その後、いろいろと大変な状況に直面し、私は自分自身に生きる価値がないのではないかと思ったこともあった。
それから早くも30年以上経過した。
その当時の23歳だった私から見た場合、その後の未来はどうだったであろう?
私が激動の人生を送ることになったことや、当時獲得していたものをすべて捨ててしまったことは、総じて苦難が多かったという点では、「いい未来」ではなかったのかもしれない。
それは、安定や保証など何もない世界だった。
しかし、私は必ずしも恵まれた状況でない世界で、非常に多くのことを学んだ。
また、生きていく上で様々な工夫をし、努力をしていく経験の中から非常に多くの能力を獲得してきた。
不思議な縁のもとに、外国人の女性と結婚し、素晴らしい娘を授かった。
不思議なことに、今現在、私は私の当時の選択をまったく後悔はしていない。
「いい未来」だったかどうかは、わからない。
だが、少なくとも冒険とスリルに満ちた「いい人生」だったと思っている。
こうして振り返ると、若き日に「いい未来」と想像したことは、すべて観念に過ぎなかったと思う。
「いい未来」というのは、単なる言葉に過ぎないのではないかと私は現在は思っている。
「蒙(もう="Enveloping")」という卦(Hexagram)は、告げている。
「ごちゃごちゃ、ずるがしこく安全圏を求めたって、そんなもんはないよ!
覚悟を決めよ!
選択を考えることは、間違いではない。
しかし、重要なのは、一歩踏み出してみることだ。
未来は常に変化していく。
あなたの行動が、その結果を決めていく。
なにもしようとしないあなたが、結果の良しあしを心配してうろたえているのは、見苦しい。
あなたは、自由意志を与えられている。
それを行使することができるのが、人間の素晴らしい特権なのだ。
その結果は、良かれ悪かれ、あなただけの人生の軌跡であり、一回限りだからこそ神聖なものなのだぞ?
私は、あなたが神聖な決定を下して前に進むことだけを援助する。
尊厳をもって、あなただけの未来を作っていきなさい!」
自分だけの人生を全うする!
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あなたが、勇気をもって行動していく中で、あなたの人生は一本の線を描く。それは、かけがえのないあなただけの人生である。結果を恐れるよりは、今現在を必死で生きていくべきである。 |
「蒙(もう="Enveloping")」という卦(Hexagram)において、易経は、「あなたの願いはかなう」との判断を下していることを忘れてはならない。
ただし、そのためには、「正しい態度で道を求めるならば、運は開ける」という前提条件が付けられている。
ここで易経が言う「正しい態度」とは、「ひと言アドバイス」の中に、次のように書かれている。
「気概をもって行動し、徳を養おう」
あなたが、結果を恐れて躊躇せず、勇気をもって自分の人生を歩んでいくのであれば、あなた自身の人生を全うするという意味においては、それは実現すると易経は言っている。
これは、易経に限った人生哲学ではない。
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インドの聖典、「バガヴァッド・ギーター」。そこには、行動の哲学が説かれている。 |
インドの聖典、「バガヴァッド・ギーター」のなかで、親族を殺戮する戦いを前に躊躇するアルジュナに対し、クリシュナ(神)は言う。
「アルジュナよ、結果の良し悪しを小賢しく考えるな!
クシャトリア(武人)としての今の人生に忠実に、行動せよ!
私は、結果の良し悪しは問題としない。
戦え!」
私たちも、気概を持って、自分の人生と戦うべきである。
易経は、私たちが人生における選択を考えるうえで、多くの示唆を与えてくれる。
だが、主人公はあなたである。
あなたの人生は、世界中のどの人物とも異なるあなただけのものである。
結果を恐れず、自分だけの人生に飛び込んでいこう。
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