易経占い以前の問題として、私たちは自分の死生観や人生観、そして自らの使命を考える必要がある。
今回は、少し深刻なテーマであるが、私たちの生と死、そして使命について考えてみたい。
死生観、人生観、そして私たちの使命とは
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死生観、人生観というのは、誰もが持っているわけではなさそうだ。 |
最近、非常に親しい友人が、癌の宣告を受けた。
彼の癌はすでに体の複数個所に転移しており、ステージ4である。
彼は私と同い年であり、誕生日も近い。
治療方法や、今後のことを巡り彼からいろいろな相談を受けている。
こうした相談を受けていると、人生観や死生観についていろいろと考えさせられることが多い。
人生の目的
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あなたは、人生の目的をどう考えている? |
私たちは、普段は生きていることを当たり前だと思っている。
生物はいつかは死ぬ。
だが私たちの多くは、死を非現実的なことと考えて生活している。
私たちにとって死とは、通常は「観念」にすぎない。
それは当然のことだ。
私たちは死は一回しか体験しないし、死んで蘇るということはないからだ。
しかし、私の友人のような状況では、死が近づきつつあることを実感せざるをえなくなる。
彼は、現在、抗癌治療を受けているが、明らかに彼の人生観は変わってきている。
これまでの彼は、仕事の傍ら音楽活動をやり、仲間と酒を飲んで騒ぐことが好きだった。
しかし、最近の彼と私の会話は、「今後の残りの人生を、どう使うか?」、「今後の人生でできることはなにか?」ということについて話し合うことが多い。
彼は今、初めて「人生の目的」を考えようとしている。
彼と話す中で、私もいろいろと考えさせられることが多い。
人生の果てにあるもの
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人生観がないまま、歳を取っている人は多い。 |
ところで私は今、彼とは対照的な人たちの介護をしている。
私の両親だ。
以前もこのブログで書いたことがあるが、私の両親の「人生の目的」は「娯楽」である。
彼らは趣味に興じ、旅行したり芝居を見たりすることを「人生の目的」として生きてきた。
そうするうちに、体が不自由になり、記憶や認知機能がおかしくなって、日常生活に支障をきたすようになった。
最近では、彼らは死が恐ろしくてたまらない。
少しでも血圧が高ければパニックに陥る。
どうみても重大ではないことでパニックを起こして病院に駆け込む。
大げさに死を恐れても、彼らは内臓に異常があるわけではないので、最近では病院に相手にされない。
救急搬送されても、彼らは入院すらさせてもらえない。
私が彼らに、「医者に行く前に、少し冷静になりなさい!」と言えば、彼らは「我々が死ぬかもしれないのにお前はなんとひどい人間なのだ!我々が死ぬのをお前は望んでいるんだ!私たちに死ねというのか!」などとわめく。
彼らは、死が近づいているという現実を受け入れることができず、体が衰えて歩けなくなったことに不満である。
彼らの認知機能は末期的な様相を呈しており、すでに完全な認知症と言える状態である。
でも、彼らは自分たちが認知症であることを決して認めない。
最近では、テレビで高齢者の問題や認知症の問題が放送されていると彼らはテレビを消す。
彼らは「人間は誰もが年老いて衰え、いずれは死ぬ」という現実を否定している。
「娯楽に興じながら、永遠に生きる」ということしか、彼らには目的がない。
彼らは死を否定しているのだ。
私には、彼らの考え方は異常に思われるのだけれども、しかし彼らが特別奇怪なわけではない。
彼らと同様の高齢者が日本には数え切れぬほどいる。
日本は、こうした老人たちの現実逃避のために多くの政策がとられている。
そう考えると、奇妙な感慨をもたずにおれない。
生きるとは?
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生きることは、いずれ死ぬことだ。このシンプルな事実は、現代では否定されがちである。 |
癌を患う友人と私は同い年なので、彼と話をすると私は私自身のことも考えざるを得ない。
私たちはすでに50代半ばだ。
現生人類の寿命設定が50歳であるとする説もある。
だとすれば、私はすでにいつ死んでもおかしくはない。
実際、私の同級生だった友人のなかにはすでに亡くなっている人も少なからずいる。
重い病気や障害を発症し、昔のように生活できない友人や知人も次第に増えてきた。
「私は、あと何年生きることができるだろう?」と考えることが多い。
しかし、不思議なことに、私は私の両親のように、「永遠に生きたい」とは思わない。
現代ではゲノム技術の進歩で、臓器を複製さえできるようになりつつあるという。
医学の領域ではさまざまな治療法が生み出されている。
そうした結果、延命治療が進歩し、日本では「人生100年時代」という言葉が横行するようになってきた。
だが、「人生100年時代」が私の両親のようなものであるならば、私はそんなものは要らない。
生きることの意味が私の両親のようであるならば、それは果たして「生きている」と言えるのだろうか?
感動するということ
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私たちが感動を覚えるのは、未知の領域を知ることと密接に関係している。 |
私は最近、両親が人生の目的としているような「娯楽」が楽しいとは思わない。
私はテレビを観ない。
テレビはなくても私は不自由を感じない。
歌謡曲にも、テレビドラマにも現在はあまり関心がない。
旅行も最近は行きたいと思わなくなった。
高級な料理にも関心はない。
最近の私は、世の中の多くの人が追い求める流行にも無関心だ。
しかし、私は若いころからそうだったわけではない。
二十歳前後のころは、私はよく旅行に出かけたし、美味しいと評判のものを食べたりしたし、テレビもよく見ていた。
当時の私は知らないことが多く、新しい経験や新しい情報に飢えていた。
新しい体験は、私に多くの発見と感動を与えた。
その後、月日は流れ、現在の私は多くのことを知っている。
すでに知っていることに対して、私たちは感動しない。
だから、私が現在、テレビにも旅行にもグルメな料理にも関心が薄いのは、人生の経験値が蓄積されて次第に未経験のことが少なくなってきたからである。
しかし、だからといって私は無感動ではない。
私は娯楽や享楽に対しては感動は感じなくなっているけれども、若いころとは全然異なったことに感動を感じるようになっているだけのことだ。
人間はどういうときに感動を感じるか?
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感動は、未知の扉が開くのと似ている。 |
「感動」は、実は私たちの人生観や死生観に大きくかかわる。
人間はなんのために生きるのか?
人間は本来は心が震えるような「感動」を体験するために生きているのではないのだろうか?
私たちが、映画を観たり、音楽を聴いたり、旅行をしたりするのはなんのためか?
それは、私たちが「感動」を求めているからだ。
では、私たちは、どういうときに「感動」するのだろう?
基本的には、私たちは自分が知らなかったことを知るときに感動するのだと思う。
新しい知識を得たり、できなかったことができるようになる時、私たちは感動を覚える。
脳内のシナプスが新しくつながるとき、私たち現生人類は感動を覚えるようにできている。
若いころは、私たちは知らないことが多く、テレビを観ても、映画を観ても、旅行に行っても、初めて知ることばかりだ。
これまでに食べたことがない食べ物の味にも私たちは敏感に反応するように脳が設定されている。
だから、若いころは「感動」の対象がたくさんある。
しかし、年を取るにつれて、私たちの経験は増えていく。
次第に知っていることが多くなる。
私たちはすでに知っていることについては感動しない。
上述したように、私が最近、テレビにも映画にもグルメにも興味がないのは、「すでに知っている」ことが多いからだ。
一方で、最近の私はまったくこれまでとは異なることに対して感動を覚える。
たとえば、若い人に仕事や技術を教えるとき。
彼らが、できなかったことができるようになっていくとき、私は感動を覚えるようになった。
あるいは、娘の成長を感じる時。
また、私が教えている若い人が、私とは異なる方法で問題解決に行きつく様子をみるときも、まるで子供のころのように新鮮な感動を覚える。
年齢とともに感動の質は変化していくもののようだ。
感動の対極、マンネリズム
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人間は、感動を否定する生き方もできるということは、最近両親を観察して知ったある種の驚きである。 |
一方で私の両親のような人たちは、どうなのだろう?
彼らは、どう考えてみても「感動」は求めていない。
彼らは、なにを求めているのか?
彼らが求めるのは、一種の惰性的な安心感だ。
テレビを毎日ずっと観るのは、なんとなくテレビがあると目や耳が刺激されるからだ。
新しい発見は彼らにはすでにどうでもよく、自分の知っている歌や音楽が繰り返されることが彼らにとっては精神安定剤となる。
旅行については、彼らは日常的な家事を怠けるための手段と考えている。
旅館に泊まれば、食事も出てくる。
掃除も洗濯もしなくてもいい。
要するに彼らは、楽がしたいのだ。
生理学的にストレスがない安楽な状況が、彼らにとって最大の価値だ。
考えてみると、教師の仕事を退職した後の彼らは、すべてこの価値観で生きてきた。
彼らの生活は、ストレスもなければ感動もなかった。
現代社会では、彼らのような価値観を求める人々のためにあらゆる産業が動いている。
享楽主義的なマンネリズムこそが現代社会の目的になりつつある。
「感動」が、新しい発見や知的欲求と切り離せないものだとすると、マンネリズムはある種の退廃なのかもしれないし、深刻な脳の劣化である。
私たちが「感動」するためには、調べたり、探したり、学習したり、練習したり、方法を考えたりする必要がある。
そうでないと、私たちは新しい次元の世界を見出すことができない。
「感動」のためには、必然的に自分に負荷をかける必要があるのだ。
一方で娯楽は一種のマンネリズムだ。
「楽しければ、それでいい。努力しなくて済むならば、それでいい」という考え方は、現代社会では珍しくないが、それはマンネリズムであり、人間の退化にすぎない。
人間は退化もする?
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人間は進歩することもできるが、退化することもたやすい。 |
マンネリズムは、体を休める程度ならばまだいいのだけれど、マンネリズムを推進していくと、多くの問題が起こってくるようにも思う。
私の両親を例にあげよう。
彼らは高齢になり、足腰が痛むようになると、まだ改善努力はできるにもかかわらずなにもしなくなった。
本来ならば、運動を心掛けたり、筋力を回復させるために体を鍛える必要があるのだが、彼らはどこか痛くなれば、鎮痛剤を使用する。
鎮痛剤は痛みを麻痺させる麻薬の一種だ。
飲むだけで痛みが消える鎮痛剤は、まさに彼らの要求にふさわしい魔法の薬だ。
しかし、鎮痛剤を使用すれば動かしてはいけない方向に体を動かしてもわからない。
結果的に、彼らの足腰の不調はどんどん悪化した。
やがて、足腰がうまく動かせなくなった彼らは、これまで興じていた娯楽の多くが享受できなくなった。
母親は動けなくなった現実を直視できず、重度のうつ病を発症した。
娯楽の制限される生活の中で、自分と向き合わねばならぬことにこういう人たちは耐えることができない。
死ぬことが恐ろしくてたまらないため、私の母親は毎晩寝られない。
「死ぬかもしれない!」とパニック発作を頻繁に繰り返している。
すでに何回も母は真夜中にパニックを起こして救急搬送されている。
医師に「あなたは死なないですよ」と言ってもらわねば彼女は不安でたまらない。
たったそれだけの理由で救急車を呼ぶのだから、彼女はすでに正常とは言えない。
結果的に母は抗うつ剤を処方されるようになった。
抗うつ剤を飲むと、母の気持ちはしばらくは安定し、人が変わったように機嫌がよくなるが、抗うつ剤が切れてくると、「死ぬかもしれない!」と再びパニックに陥る。
やがて母親は抗うつ剤に依存し、乱用するようになった。
抗うつ剤の効果が切れてくると、不安はいっそう倍増されるため、禁断症状で罵詈雑言を私に浴びせたりする。
不安が高じてくると、けいれんを起こして失神し、救急車で病院に搬送される。
こういう状況に至って、私も母親の介護にははっきりした限界を感じている。
最近では彼女のうつ病が悪化した時は、彼女を精神病院に入院させざるをえなくなっている。
なぜならば、死の不安でパニックを起こすのは母だけでなく父親もだ。
死に対しての恐怖は、両親ともに非常に強い。
二人同時のパニックは、私一人ではとても対処しきれない。
パニックを起こして大騒ぎするくらいならば、彼らは現在できることを考え直し、ライフスタイルを現状に合わせていけばいいはずなのだ。
だが「感動を求める」という人間本来の機能を、とっくの昔に喪失している彼らにとっては、身体的な変化や生活習慣の変化は、新たな感動への刺激とはならず、恐怖しか生み出さないらしい。
ライフスタイルを変更したり、現状を改善したり、といったことが彼らにはできない。
彼らが行きついた先は、鎮痛剤と抗うつ剤を飲まねば正気を維持できないという末期的な状態だ。
彼らは、自分たちがいずれ死ぬという現実を最後まで受け入れることができないであろう。
最終的には彼らは死におびえて狂い死ぬのかもしれない。
しかし、こうした問題は、誰かが彼らに教えることもできない。
彼らが死を否定している以上、彼らに対して人生の意味を問うことは非常に難しい。
死生観
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人生の多くの問題は、死生観をもたねば解決しないように見える。 |
私たちの人生は、時間が限られている。
私たちは誰もが、いずれは年老いて死ぬ日がやってくる。
こうした厳然たる事実を前提として、今をどう生きていくかを考えることを、死生観という。
現代社会が作り出した娯楽至上主義にもとづくマンネリズムの讃美は、死生観をもたぬ大量の人間を造り出しているように思う。
私たちは、死生観がなければ人生観を持つことができない。
人生観とは、私たちが生きていく上での原則だ。
私は、易者をしているけれども、相談してくる人の多くは、人生観を見失って道に迷っている。
人生観がないということは、たとえて言うならば私の両親と同じである。
おもむろに死を否定し、死を恐れてパニック発作を繰り返す。
易者が接する多くのクライアントは、ある種のパニック状態にある。
そうしたパニック状態に陥っているクライアントの手助けをするには、彼あるいは彼女の人生観の問題に立ち入る必要がどうしてもある。
クライアントが、生きていく上での原則である人生観を再構築するための手助けをするのが易者の役目である。
そのためには、クライアントに死生観を考えてもらわねばならない。
だが、娯楽至上主義とマンネリズムを価値としているクライアントは死を否定している。
死を否定する人は、死生観を持つことができない。
また当然、彼らはライフスタイルの変更も、努力もしたがらない。
ここに、易者の困難がある。
使命を果たす中で、死生観や人生観は完成される
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人間は誰もが、その人にしかできないことがある。そこに人間の使命はあるのかもしれない。 |
人生に迷う多くのクライアントに欠如しているもの、それはまずは「いずれ死ぬ」という現実の認識だ。
死は、否定しようがしまいが、いずれやってくる現実だ。
逃れることができる人はだれもいない。
しかも、死はいつ訪れるのかは予測できない。
健康状態に問題がない人でも、交通事故や災害で思いがけずに死に至る場合もある。
ということは、私たちは常に、いつ死んでもおかしくない。
これは現実である。
こうした現実を正しく認識した場合、私たちはどう生きたらいいのだろう?
私たちが、生きている間に、どうしてもやっておかねばならないことはなんだろう?
私たちがそう考える時、人生に対する洞察が発生する。
人生観とは、死生観と切り離して考えることはできない。
私はクライアントに対していつも尋ねる。
「あなたが、最近、感動したことはなんですか?」
「あなたは、十日後に死ぬとしたら、なにをしますか?」
人生観は、私たちが生きる上での原則である。
人生観を考える場合、この二つの質問は、シンプルだが最も重要である。
あなたにしかできないこと
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あなたにしかできないことは、なんだろう? |
私たちは若いころは、新しい発見に対して「感動」する。
しかし、前述のとおり、経験が蓄積されていくと、「感動」の質は変化していく。
それまでインプットで感動していたものが、アウトプットの感動に変化していく。
積み重ねた経験から、今度は私たち自身がなにかを生み出していかねばならない。
まったく新しい仕事を構築する場合もある。
人を育てる場合もある。
絵画や小説や音楽などの作品を生み出す場合もある。
生み出すものがなんであるにせよ、それはあなただからできることであり、あなたしかできないことだ。
あなたにしかできないこと、あなたにしかできない役割、それはいわばあなたの「使命」である。
キリスト教社会だと、「神から与えられた使命」という言い方をするのだと思うが、あなたしかできないことを実行していくことは、人生観を完結させるためには不可欠である。
私は仕事柄、これまで多くの高齢者と接してきた。
私が接してきた高齢者の中には、私の両親のような人たちもいたが、まったく正反対の人たちもいた。
人生観を確立している人は、どんなに高齢であろうとも、死を恐れていない。
そういう人は、たとえ体が次第に動かなくなったとしても、いろいろと工夫し、現実に即した人生に満足して生きている。
そういう人は私の両親のように絶望して抗うつ剤依存に陥ることはない。
しかも、そういう人は毎日、新聞を読み、新しい情報にも驚くほど精通していたりする。
そして、そうした人は、ほとんどが、ある種の「使命感」を持っている。
そうした人は、孫の世話をしたり、自分が死んだ後の家の処理を考えたり、地域社会の問題解決に携わったり、高齢にもかかわらずけっこう忙しい生活を送っている。
それらは、「使命感」に基づいているからだ。
彼らは精神が若い。
高齢であっても、「感動」を求める精神を持っている。
人間というのは、最終的には人生観に基づいて「使命」を果たすことに最大の「感動」を覚えるものなのかもしれない、と私は考えずにおれない。
「使命感」に基づく行動で自分の人生観を完成させることこそ、人間に可能な最大のアウトプットであるのかもしれない。
もしかすると、人間の人生の目的はそこに行きつくのかもしれない。
人生観は、占い以前の問題である
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占いをする以前に、あなたは人生観を持っているだろうか?これはあなた自身が考えねば出てこないことだ。 |
私たちは社会の中で生きているから、様々な組織や、人間関係と私たちの人生は切り離すことができない。
経済活動も私たちの人生と密接である。
しかし、それらは表層的な問題である。
「人生観」や「使命」に関しては、あなた本人しか考えることはできない。
そこでは、財産の有無や、一般的な社会の評価は意味をなさない。
「人生観」は、あなた自身が考えるべき問題なのだ。
それは、「あなたにしかできない役目」を考えることでもある。
「人生観」を完全に見失ったクライアントに対しては、易経占いを施すことができない。
占いとは、本来は「Aか、それともBか」で迷うことに対して行なわれるものだ。
人生観がまったくわからなくなっている人の場合は、自分自身の納得よりも、世間的な評価がすべての基準になってしまっている。
また、そういう人は私の両親と同様に、「現状を変える努力はしたくない」ものなのだ。
そういう人に対しては、易経占いは行なえない。
そういう人は、現実を正しく見ていない。
そういう人が求めていることは、なにかありえないような幸運がやってくるかもしれない、というような安易な現実逃避の暗示を得ることである。
彼らは現状の変更を望まない。
彼らは努力が嫌いだ。
だから、彼らは他者の話を聞かない。
「人間関係がうまくいかないのは、周りが自分の邪魔をするからだ!」
「会社の経営がうまくいかないのは、従業員がしっかり働かないからだ!」
彼らは状況が芳しくないことを、他者のせいにする。
そうした問題は、彼ら自身が自分に対してなにかを変更していかねばならないのだが、改善を求められれば、彼らは「でも、私は悪くない」、「だって、従業員が無能だから」、「でも、相手が話を聞かないから」などと言い訳ばかり言う。
ようするに、彼らは現状維持で永遠のマンネリズムが続くことが望みだ。
彼らは現状を変える努力はせずに、幸運が来ることの保証を易経占いに求めているのだが、易経だろうがタロットカードであろうが、そういう人に答える言葉はないということを知るべきだ。
明日死んでもいいように生きる
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あなたは、永遠に生きると錯覚していないだろうか?いずれ死ぬ事実を考えることは、人生の重大な局面では非常に重要である。 |
私は、そうしたクライアントには、易経占いはせず、先に書いた二つの質問を考えてもらうようにしている。
「あなたが、最近、感動したことはなんですか?」
「あなたは、十日後に死ぬとしたら、なにをしますか?」
最初の質問は、今のあなたが求めているものを考察することができる。
王陽明も言っている。
「目に入るもの、気になるもの、そうしたすべては自分の心の反映だ」と。
もし、最近、大きな感動を感じたものがあれば、あなたの心が現在、なにを求めているのかを知るきっかけになる。
私たちは、心が求めることしかできない。
あなたが本心から求めることには、人生観に対する大きなヒントが隠されているものである。
第二の質問は、死生観を前提とした場合、あなた自身になにが重要なのかを考えるきっかけとなる。
もちろん、十日後に死ぬとしても、娯楽を楽しむだけ楽しむ、という人もいるであろう。
しかし、娯楽至上主義のマンネリズムでは、私たちが心の安定は得られないのは、私の両親の例を考えればよくわかる。
別に、死ぬのは十日後でなくてもいい。
死ぬまでの期間の設定は一年後でも、十年後でもいいのだが、「いずれ私たちは死ぬ」という現実に対しては、私たちは自分の原則を設定し、「これだけは役目として果たしたい」という使命感をもたなければ対処できないのだ。
死生観と人生観に基づく「使命」を遂行することは、私たちの人生における、最大級の「感動」を得るための源泉でもある。
私たちの役割
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私たちは、自分の役割を果たした、と実感できるとき、最大の感動を得ることができるのかもしれない。 |
最後に、私の亡くなった祖母の話をしよう。
彼女は裕福な家庭で育った人だったのだが、親の決めた婚姻で私の祖父と結婚した。
私の実家は、地主であったが、当時、親戚との共同事業に失敗し、大きな負債を抱えていた。
第二次大戦前後は負債の返済が破綻し、私の実家は破産状態に陥った。
使用人を解雇し、売れるものはすべて売却し、借金返済をする中で、祖母は九人の子供たちを育てた。
農作業や家事にあけくれ、自分の嫁入り衣装を解体して子供たちの服を作り、祖母は寝る時間がないほどに働いたが、体を壊して最後の20年は歩行が困難な人生を送った。
ちょうどその時期、私の両親が私の養育を放棄したため、人生の最後に祖母は孫である私を教育する、という最後の「使命」に挑むこととなった。
私の教養や倫理観その他、基礎的な部分の多くは、私の祖母に教育されたものである。
私が中学生になったころから、祖母は衰弱し、やがて寝たきりになってしまった。
病状は良くなく、いつ死んでもおかしくない状況だったが、祖母は不思議と、現在の私の両親のように取り乱すことはまったくなかった。
彼女はいつも言っていた。
「私の役目は終わった。
九人の子供たちがすべて仕事を持ち、結婚し、子供がいる。
お前も、ちゃんと成長した。
私は役目を終えたので、すでにいつ死んでも満足だ」
彼女は、私が高校生の時に亡くなったが、最後、苦しむこともなく、穏やかな死に顔で息を引き取った。
彼女の最後は、私の人生観に大きな影響を与えている。
易経占いは、私たちに多くの示唆を与えてくれるけれども、私たちは人生観については各自が考えていかなければならない。
私たちの命は、多くの偶然の結果だ。
私たちの命は、実は奇跡のようなものだ。
私たちが、私たちとして存在できているという偶然は、それぞれが奇跡であり、あなたも私も、自分にしかできないことが必ずある。
それが使命というものだ。
人生で得られる最大の感動は、我々が使命を果たしたと実感できることであると思う。
死はかならず訪れるけれど、命ある限りは、虚無に陥ることなく頑張って生きていこう。
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