易経の起源 その1 易経の成り立ちに関する「定説」

今回から、易経の起源について書いてみたいと思います。

私の個人的考え方も書きます。

私は学者ではありません。

なので私が書く文章はアカデミズムに反する部分もあると思います。

しかし、私個人の考えも含めて自由に書きたいと思います。

私は現実主義者のつもりです。

考古学や歴史学を否定していないことをお断りしておきます。

易経の起源は「不詳」である

易経は、古来、中華世界最古と推定される古典作品なのですが、その起源は実際のところ謎に包まれています。

考古学的な検証も行われてきていますが、せいぜい史記や春秋左氏伝(Chūnqiū Zuǒshìzhuàn)などの記述から推測するよりほかはありません。

孔子の儒教学派が易経を重んじて、儒教の根本経典である「四書五経」にもあげられるようになりました。

ですが、易経が実際のところ「なに」に由来し、「どういう」経緯で現在のような形で伝えられているのかについては、すべてが推測の域をでません。

このブログで私としては、一般論的な易経の歴史や起源をご紹介するとともに、異説も含めて私個人の意見も述べたいと思っています。

伝説的な易経の起源

易経の成立については、漢代以前から伝説的なことが言い伝えられてきました。

こうした「伝説」は、細部は違いはあるにせよ、だいたい一致しています。

ウィキペディア「易経」から引用すると、このようなものです。

易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。 まず伏羲が八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説に神農が重卦したとも)。次に周の文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、漢代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。

以下、少し補足します。

伏羲(ふっき)が「八卦」を創造?

易の表象の基本となっている「八卦(はっけ)」を作り出したとされている伏羲(ふっき)とは、中国古代の神話に登場する、上は人間、下は蛇の異形を持つ神です。

こうした神の形は、テリアントロプス(半獣半人の生物)と呼ばれ、世界各地の神話の中では様々な形で登場してきます。

伏羲(ふっき)に関しては、ウィキペディアから写真と説明を引用すると、次のようになります。

ウィキペディアより引用の伏羲(ふっき)と女媧(じょか)を描いた絵
ウィキペディア「伏羲」より引用の伏羲(ふっき)と女媧(じょか)を描いた絵

伏羲(ふくぎ、ふっき、ふぎ Fu Hsi または Fu Xi)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・庖犧・包犧・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は風。兄妹または夫婦と目される女媧(じょか)と共に、蛇身人首の姿で描かれることがある[1]。

太皞(たいこう)と呼ばれることもある。

『易経』繋辞下伝には、伏羲は天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる。

伏羲と女媧は兄妹であり、大洪水が起きたときに二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説が中国大陸に広く残されている。類似の説話は東南アジアや沖縄にも多数ある。洪水型兄妹始祖神話を参照。

中国の古典学者・聞一多も、雲南省を中心に民間伝承における伏羲の伝説を採集している。伏羲・女媧の父が雷公をとじこめていたが、子供たちがそれを解放してしまう。父は雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こしたため、兄妹を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は雷公を助けた時にもらった種を植えており、そこから生えた巨大なヒョウタンの中に避難して助かったのであり、結婚して人類を伝えたとある。(以上、ウィキペディア「伏羲」より引用)

伏羲(ふっき)は、神話上の存在とされていて、実在性はむろん薄いのですが、ここではいくつかの着目点をあげることができると思います。

・大洪水

「洪水伝説」で中国において最もポピュラーなものは、夏王朝成立期に発生したとされる洪水で、これについてはウィキペディア「夏(三代)」のページでは、

2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという[9][10][11]。

ともいいますが、伏羲(ふっき)神話における洪水は、もっとはるかに古い時代の洪水の可能性が高いと思われます。

というのは世界に残る伏羲神話のような破局的な洪水伝説は、氷河期が急激に温暖化したことによって発生した大洪水と考えられています。

これが世界中で発生したのは、紀元前1万9000年くらいから、というのが地質学的にも検証されている科学的な説です。

これは氷河期が終了して急激に温暖化したために、陸上で凍結していた氷河が溶融、世界中で破局的な大洪水が発生したのです。

その威力は、海面が数十メートル上昇するという地球的な規模でした。

氷河期には陸地であった地中海が水没し、中国大陸と陸続きであった日本列島は島となり、世界各地で破局的な神話を残しました。

氷河の溶融による海面上昇は、フランドル海進として知られています。

日本ではこれが縄文海進として知られており、ウィキペディアではこのように書かれます。

縄文海進(じょうもんかいしん)は[1][2]、地質学的には完新世海進、後氷期海進(Holocene glacial retreat)を指す海進である[3][注釈 1]。すなわち最終氷期の最寒冷期後(19,000年前)から始まった温暖化にともなう海水準上昇を指す。日本では縄文時代の始まり(16,000年前)に近い。海水準上昇は約120メートルにおよんだ(年速1–2cm)[4]。

ピーク時である約6,500年 - 約6,000年前まで上昇が続いた[注釈 2]。ピーク時の気候は現在より平均気温が1–2℃高かった[5]。なお特にピーク時およびその数百年間の海進を強調し縄文海進と呼ぶ場合もある[6]。

洪水の伝説は、こうした氷河溶融による少なくとも6000年以上前の実際の洪水の記憶がもとになっていると考えられています。

上記の紀元前1920年前後の洪水というのは、夏王朝の始祖となる禹が行った洪水の治水事業と関連があるとされています。

が、伏羲(ふっき)は、神話上においては禹よりもはるかに古い存在です。

また、神話に描かれている伏羲(ふっき)の時代の洪水の規模は、治水などというものではなく、それこそ人類を滅亡寸前の窮地に追いやった大異変の水準です。

こうした破局的な洪水伝説と伏羲(ふっき)がクロスオ-バーしているということは、実はそもそもの「易経の原型」にあたるものの発祥起源は非常に古いのかもしれません。

実は易経の原型は、現在考古学的に言われている夏王朝や殷王朝の時代などよりもはるかに古い可能性があると思います。

ひょっとすると氷河期の頃までさかのぼる可能性も否定はできないと思います。

・伏羲と女媧

上にウィキペディアから引用した図は、「伏羲(ふっき)と女媧(じょか)」を描いたものです。

このようにこの二神は、「テリアントロプス(半獣半人の生物)」として描かれることが多いです。

引用した絵では、伏羲と女媧は下半身が絡み合った蛇のように描かれ、手にそれぞれコンパスと直角定規を持っています。(これは次回以降、また別な観点で重要になってくる部分です。)

ちなみに、別説で易経の八卦を重ねて、今ある64卦(Hexagram)の形にしたのは、神農である、ともいいます。

が、神農も、顔が牛で体が人間の形をした異形のテリアントロプス(半獣半人の生物)です。

テリアントロプス(半獣半人の生物)というのは、欧州のクロマニヨン人が残したアルタミラ洞窟の壁画などにも見られるものです。

今から1万9000年以前の氷河期における人類の痕跡には、こうしたテリアントロプス(半獣半人の生物)が非常に多く見られるのです。

易経の創始者は、このような氷河期によくみられるような「異形の存在」なのです。

このことは、易経の根本的な起源が歴史考古学年代よりもはるかに古い時代にさかのぼる可能性もあることを物語っています。

・人類の起源に関わる伝承

洪水伝説には、生き残ったものが人類の祖先になった、という神話が付属していることが多いです。

聖書のノアもそうですが、ここでも伏羲と女媧は、大洪水で多くの者が絶滅していった後に残された人類の祖として描かれます。

人類の祖としての伏羲(ふっき)と女媧(じょか)は、テリアントロプスではなく「アダムとイヴ的な人類の祖先としての古代人」として描かれます。

検証は不能にせよ、伏羲(ふっき)にまつわるこうした洪水伝説や人類の祖先としての神話はその背景がかなり古く、少なくとも夏王朝が成立したと言われる紀元前2000年頃よりは数千年は古いはずです。


さて、以上のような着目点からすると、どの点で見ても易経の起源として伏羲の存在は、考古学的に考えられているよりもずっと古い可能性があります。

これはあくまで筆者の個人的な見解ではありますが。

伏羲と女媧については、次回以降また別な観点で後述したいと思います。

周の文王が「卦辞(Explanation of the Hexagram)・爻辞(Explanation of the Lines)」の作者か?

易経伝説で、もっとも多く登場する人物として、「周の文王」がいます。

ウィキペディアから引用した「文王」の絵
ウィキペディアから引用した「文王」の絵

文王は、名を姫昌(Jī chāng)といい、実在したと考えられている人物です。

文王は苦しい運命に翻弄されつつ、最後まで当時の超大国であった「殷王朝」の属国である小国「周」の王という立場で生涯を終えています。

この文王の時代に周は国力を飛躍的に高め、やがて文王の子の武王や周公たちの時代に周は革命戦争を実行し、殷を滅ぼして新しい超大国となります。

易経の伝説では、文王は小国であった周を治める名君でした。

当時、中華世界を支配していたのは殷です。

殷は暴君で名高い紂王(King Zhou)の時代でした。

紂王(King Zhou)は、気に入らぬ家臣や諸侯を次々と抹殺していきました。

暗黒時代でした。

文王もまた、紂王(King Zhou)によって周の西の郊外にあった羑里(ゆうり)の地に幽閉されてしまいます。

この時期に、文王が易経の卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)を執筆した、というのが易経の成立にまつわる伝説です。

それゆえに易経は「周易」とも呼ばれます。

しかし、易経の卦辞(Explanation of the Hexagram)・爻辞(Explanation of the Lines)には文王が死亡した後に関する記述もあることは古くから指摘されてきました。

現代では卦辞(Explanation of the Hexagram)等の作者として文王を特定することはできないとされています。

「文王が易経の作者であるとする説」は伝説に過ぎないかもしれません。

が、易経の卦辞(Explanation of the Hexagram)、爻辞(Explanation of the Lines)は、舞台としては殷の時代末期から周の前半を扱った記述が多く見られます。

なので卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)の成立年代は、文王も生きた殷の末期から春秋時代(紀元前1100年ころから紀元前500年ころ)と推定されます。

卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)の実際の作者については、複数説が有力とされます。

おそらくですが元々は口頭で伝えられていたものが、文字としての漢字(Chinese characters)が完成するにしたがって記録されるようになっていったのだろう、と考古学的には考えられています。

それらは当初は複数のテキストだったのかもしれません。

が、どこかで誰かが、現在の卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)の内容に統一してまとめた、と考えるのが適切でしょう。

いずれにせよ、非常に古い時代ですので記録もありません。

卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)の実際の作者や現在の形への編集が誰であるのか、またそれがいつの時代だったのかは、まったく不明です。

しかし、文王については、易経の卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)との関りが「まったくない」のかというと、それも確証はできません。

伝説にすぎないにせよ、文王は易経となんらかの関りはあったのかもしれません。

伝説として残っているということは、むしろ文王が易経の編纂になんらかの形で関係していた可能性も否定することはできません。

孔子は「十翼」の作者か?

孔子は、みなが知る儒教の開祖です。

易経の起源に孔子が出てくるのは、孔子の学派である儒教が、易経を儒教の根本経典の一つとして採用したからです。

孔子は紀元前500年代に実在した人物ですが、伝説では次のように言われます。

ウィキペディア「易経」から引用すると、

孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており[3]、「韋編三絶」の故事として名高い。

「十翼」といわれる「彖(Tuan)・繋(Department)・象(Xiang)・説卦(Gua)・文言(Classical Chinese)」というのは、オリジナルテキストの注釈です。

つまり、卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)に対する注釈が「十翼」です。

現在、「易経」として知られているものは、卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)に加えてこれらがすべてセットになったものをいいます。

では、孔子はこれら解説テキストの実際の作者であるのか?というと、これも現代では疑問視されています。

文体が不統一であったりしますし、それぞれが異なる時代に書かれたと思われます。

しかし、孔子が易経の注釈に「まったく関わっていないか?」といえば、それも確証はありません。

少なくとも、孔子の時代には易経は占いのテキストとして存在しており、各種の注釈もいろんな人が書いたものが存在していたのだと思います。

それらを後に儒教が今の形にまとめていったと考えられますが、孔子はこれらをまとめるにあたっての「見解」は持っていた可能性があります。

現在に伝わる易経は、孔子の時代である戦国時代に今の形に編纂されたのでしょう。

易経は漢の時代には「占いテキストの定番の一つ」として現在の形で存在しました。

これが以後スタンダードな占いテキストとして用いられることになります。

易経が現在の「最終形」になるまでには、儒教の果たした役割は大きく、それが「孔子が十翼の作者であるという説」にもつながっています。

また儒教により、伏羲(ふっき)や周の文王がその「重要部分における易経の作者」ということに「指名」され、孔子と合わせ「三聖」と呼ばれているわけです。

易経についての歴史科学的な「定説」まとめ

以上は、伝説としての易経の起源と、現代の考古学的検証に基づく易の成立起源のお話でした。

上記を踏まえて、「歴史科学的」な見解として、現代に伝わる易経の成立をまとめますと、

1,最初に大まかな占い手段として「八卦(Eight Trigrams)」が作られて占いに使われた。(殷王朝以前?伏羲?)

2,八卦を重ねて、64卦(Hexagrams)となり、それが占いに使われるようになった。(神農?)

3,殷末から周の初期に、64卦(Hexagrams)に対して卦辞(Explanation of the Hexagram)と爻辞(Explanation of the Lines)がつけられて占いに用いられた。(文王?)

4,戦国時代にかけて、「その他の易経の注釈」の原型が複数の作者によって書かれた。それらを、儒教が編纂し、現代に伝わる易経が定番として成立した。(孔子?)

不明な部分が多いため、さまざまな見解はあるようですが、これが一般的な「定説」としての易経の成立の流れと考えられています。

易経という「占いテキスト」が驚くほど古い起源をもっていることは、学者であろうと認めているわけです。

ところでどうしてこうした「占いテキスト」がこれほど重要視されてきたのでしょう?


易経が現れた周の成立時期から春秋・戦国期の中華世界では、「占い」ということは国家の運営に欠かせぬものだったから、と考えられています。

殷代の考古学的検証では、「甲骨占い」の遺物が発見されています。

実際に「殷墟」の発掘調査において、占いに使用されたと思われる亀の甲羅やヘラジカの角などが発掘されています。

これらは、亀の甲羅や鹿の角を火にかざして、ひび割れの文様で未来に対する見通しを占う、という占いに使用されたものだったようです。

が、「春秋(The Spring and Autumn Annals)」ではこうした「甲骨占い」と共に、「筮(ぜい)」あるいは「メドギ占い」と呼ばれる占いが登場します。

これはすなわち植物の本数を数えて占うものです。

殷から春秋・戦国にかけては、王権がなにかを行うにあたっては、必ず「占い」を通してその是非や吉凶を占ったのです。

当時の占いには「甲骨占い」と、「メドギ占い」と二種類があり、前者は長期的な見通しを、後者は短期的な見通しを占ったもののようです。

このうち、易経は後者の「メドギ占い」に所属するもののようです。

現代でも易経占いが筮竹(bamboo)を使用するのは、こうした由来であると考えられます。

春秋・戦国期には周王朝の宗主国としての権威が消滅していきました。

小国が入り乱れ、騒乱と栄枯盛衰の時代でした。

こうした先の見えぬ状況の中では、占いの権威は非常に高かったのです。

それぞれの小国は「甲骨占い」と「メドギ占い」のそれぞれの専門職を抱えており、占いの専門家たちの意見を聞いた上で政治が行われていたようです。

やがて都市国家が乱立する状況は次第に統一されていき、戦国時代には七国になり、さらに秦がすべて統一して今の中国の原型が出来上がります。

この時代になってくると社会には「合理主義」が定着していき、王権が占いで政策を決定する、というのは、なくなったわけではありませんが形骸化していきます。

「甲骨占い」は、やがてその手法や文献記録さえも失われてしまいます。

が、「メドギ占い」の系譜である易経は生き残りました。

長い戦乱の時代を通して蓄積されてきた占いの集大成として、漢の時代になると民間でも使用される占いのテキストブックとなっていったのです。

これが、「定説」としての易経の起源及び歴史です。

「陰」「陽」の発達に関する「定説」

さて、今度はまず最初に、ウィキペディア「易経」より「八卦(Eight Trigrams)の生成」と題された図を引用します。

別にウィキペディアでなくても易経を扱う書物には、必ずこの図がつきものです。

ウィキペディアから引用の「八卦の生成」
ウィキペディアから引用の「八卦の生成」

この図は、道教の世界論としても用いられるものです。

世界は、原初の混沌の中から陰陽が出現し、それらがさらに分化し、増殖していった・・・。

そういう説明にも用いられるものです。

一般的な「定説」としては、易経の起源論としてもこの論法は用いられています。

最初は陰陽「両義」だけがあって、コインを放って裏が出ればダメ、表が出ればOKという吉凶判断と同じように陰陽だけで吉凶を判断していた。

それがやがて陰陽二つを重ね合わせた「四象(four images)」となり、それがさらに三つを組み合わせた「八卦(Eight Trigrams)」になった。

最終的には八卦(Eight Trigrams)を二つ合わせた「64卦(64Hexagrams)」になった・・・。

それはより複雑な世界の説明を行うために文明の発達とともに人が陰陽を発達させたからであった・・・。

人類の文明は右肩上がりに「発達」していくものだ、という現代のスタンダードな「科学的」考え方からすれば、もっともらしく聞こえる説明です。

しかしながら、果たして本当にそうなのでしょうか・・・?

次回以降、私は、これに対する「異説」を書いてみたいと思っています。


次回”易経の起源 その2 「異説」易と遺伝子との奇妙な関係”へと続く

太極道人


0 件のコメント :